映画『流浪の月』感想 *ネタバレあり

皆さんお久しぶりです。流浪の月の映画を見てきたので、その感想です。

ネタバレを含むので注意してください。

小説は既読です。

たくさん悪口を書くので嫌な人はブラウザバックをお願いします。

 

 

全体を通しての感想からですが、はっきり言って、考えうる限り最悪のできだと思います…

なので本当に悪口を書く記事になると思います。再度になりますが、嫌な人はブラウザバックをお願いします。

 

映画を見たあと、ネットの評価を調べると星4とか付いてたので心底驚きました…

もしかして自分だけ違う映画を見ていたのか?って思うくらいに...

 

この映画を通して、視聴者に何を伝えたかったのか、何を考えてほしかったのか全く分かりませんでした。

小説版では、「性愛ではない人間関係」と「やさしさのかたち」がテーマになっていると思います。この作品の魅力は、話を読み進める中で、登場人物の苦悩や互いに寄り添う姿を通し、自分がこれまで当たり前に行使してきた優しさのあり方を見つめ直すことができる点や、男女関係を性愛や恋愛といった十把一絡げにせずに築きあげていける点であると思います。

映画版ではこの二点とも十分に表現されていないように思います。特に映画では最終盤で出てきた、文が更紗の唇を指でなぞるシーンは小説と180度解釈が異なり、この作品の根本を覆す表現でした。

その辺をちゃんと表現しないのなら、なんのためにわざわざ『流浪の月』を映画にしたのかがわからない。犯罪と許されない愛と逃避行を描きたいだけなら『八日目の蝉』を見てるほうが100倍マシだし、異常な恋愛と何か切ない感じを出したいだけならその辺の適当な小説で十分再現できると思います。

とはいえ、小説ではなく映画という形式を使うわけですから、必ずしも原作通りが正解というわけではありません。映画には映画でしか表現できないものがあります。その、映画ならではの利点を生かすために、結果として原作とは異なる形で話が進んでいくのであれば、それは非常に素晴らしいことだと思います。

しかし、今作に関しては原作の主題を曖昧にしたために何か得られたものがあるか、と言われると答えはNoだと思います。確かに役者さんたちの演技は非常に見事で、これは映画ならではの表現だなとは思いますが、それと主題をぼかすことは明らかに背反ではなく、両立可能です。

小説を読まずにこの映画見た人はこの作品を通して何を感じ取れたのか全く予想がつきません...

「あぁ、文は身体的特徴から大人の女の人を愛せず、ロリコンになってしまったんだね」みたいな話になってないですか?

「文も更紗も単に愛し合ってるだけなのに外野がうるさくてかわいそう」みたいな話になってないですか?

この映画を見た人がその人なりに何か感じるものがあれば幸いです。

 

以上が全体の感想です。

次は細かいシーンの話しですが、枚挙に暇がなくなってしますので特に印象的だったシーンをいくつか挙げていきます。

 

小説の中で特に好きだったシーンが2つあるのでまずはそこから書きたいと思います。

まず最初の更紗が「ふみぃぃぃぃぃ!ふみぃぃぃぃぃ!」と叫ぶ声が動画で再生されるシーンからです。この更紗の叫びは作中で何度も繰り返され、特に最序盤の動画の声バージョンでは物語の不穏さを表す印象的なシーンでとても大好きでした。ですから、劇場版での演技に期待していましたが、ちょっと解釈違いで残念でした。

しかし、これは映画版が悪い!というよりも単純に解釈違いだったため、「まぁ、そういうこともあるか」と思ってます。

離れたくない人から強制的に引き離されるときに出る叫ぶってもっと後ろが伸びるような、息が切れるまで声を震わせるような切羽詰まった感じを期待していたので、駄々をこねる子供のような叫びで少し残念でした。

とはいえ、さっき言ったように、これはただの解釈違いなので仕方がないです。

 

問題はもう一つの特に好きだったシーン。文の「引っこ抜いて捨てる」のシーンです。

小説では、誘拐されてきた更紗が日の当たらないところに置かれた弱ったトネリコを見て「みんな大きくなるよ。大人にならない人はいないよ」「トネリコがおおきくなったらどうするの?」といった問いかけます。それに対して文は「引っこ抜いて捨てる」と返します。

この段階では文のことに関してはロリコンである(実際は違うが)ことしかわかっていないため、更紗の「みんな大きくなる」という言葉はロリコン的な意味での残酷さと、文の「引っこ抜いて捨てる」という答えから連想される、更紗をモノのように捨て去るのではないかという不気味さでゾッとしたため印象的でした。

また、このシーンは終盤でも非常にキーになるシーンで、文が大人になることができない病気だと分かったときに、更紗の何気ない「大人にならない人はいないよ」という言葉がもつ本当の殺傷能力が分かるところや、文の実家で捨てられたトネリコと自身を重ね合わせる文といった大事なシーンであり、それゆえにとても大好きなシーンでした。

しかし、劇場版は丸々カット...

じゃあトネリコの件はやらないんだと思っていたら、実家のトネリコは出てくるし…

トネリコ出すなら「引っこ抜いて捨てる」といってくれよ...とっても大事なセリフじゃんか...更紗のセリフ含めてもさ...

『流浪の月』は話の事件性よりも、こういった掛け合いや心情描写が素晴らしい作品だと思うので、その辺をもっと残してほしかった。

 

以上が小説版で特に好きだったシーンです。

最後に数シーン挙げて終わります。

まず、幼少期の話が少なすぎて、更紗が本当にただのストックホルム症候群に見えてきます。夜中にレイプ的なことをされていたことを打ち明けるので完全にストックホルム症候群に見えるわけではないですが、アイスをご飯として食べる件然り、更紗が他の友達とは価値観が違っていて不自由を感じている描写はもっと入れたほうがよかったかなと思いました。

 

次に文が更紗の唇をなでるシーンです。

この記事の前半にも書きましたが、ここは性愛的な表現ではなく、自身の身体的特徴から女性に怯えを持つ文が、自分を恐れさせない幼い女の子に欲情するしかないと半ば自暴自棄的な、実験的な行動に出るシーンです。しかし、映画では最終盤に登場し、あたかも更紗に性愛を抱いていたかのように思わせるようになっています。

このシーンに関わらず、文も更紗も恋愛チックな態度をとることがしばしばあり、ただの恋愛でいいなら『流浪の月』でなくてもいいのになぁ…とずっと思ってました。

 

最後に一点、文が「捕まればすべてが明らかになる」というシーンです。このセリフがをわざわざ入れたのにも関わらず警察から文はロリコン扱いされており、何も明らかになっとらんやんけ!ってなりました。なんか意味ありげなセリフだからとりあえずいれとこーって入れたんじゃないの?ってずっと思ってます。というかホントに原作読んだの?????

 

以上、話は尽きませんが感想でした。なんで評価が高いのかが本当にわからない。

評価が高いだけならまだしも、原作ファンで低評価をつけている人もほとんどいないのが分からない…本当にわからない...

はりあわせ F・スコット・フィッツジェラルド 著

「壊れる」でも書いたが、私が持っていたものは私の40代のために注文してきた皿ではない。そう気が付いた。実際 - 私と皿は同じことで、私が自分のことを割れた皿と言っているに過ぎない。


こんな文章も書き残す価値はあるのだろうか。編集者から言わせれば私の文章は詳しいことは言わないで多くのことを仄めかしているようだ。そして多くの読者も同じことを思っているだろう。 - 独白というものはどれもつまらないものだと思う人はいつだっている。神様に自由な精神を与えてくださったことを感謝して話を終わらせない限りは。


しかし私だって神様には長い間感謝していた。得られたものは何もなかったが。私は嘆きを残しておきたかった。たとえそれに色を添えるべきエウガイネ丘陵の背景がなかったとしても。私の見える限りにはエウガイネ丘陵は存在しなかった。

が、たまには壊れた皿でも食器棚に残されることがある。家庭で必要なことがあったとき使われることもある。それはもう二度とストーブの上で温められることはないし、流し台の中で他の皿と一緒に洗われることもない。パーティーに出されることもないだろう。しかし、深夜にクラッカーを盛ったりだとか、食べ残しをのせて冷蔵庫に入れたりだとかはするだろう…


つまり、これは続編 - 壊れてしまった皿の続きなのだ。

 

今、失墜した人間にとって基本的な治療法は、現行の貧困や肉体的な苦しみを持つ人について考えることだ。 - これはどんな憂鬱にとっても常に至福になり、すべての人にとって健全な日中を過ごすためのアドバイスになる。

しかし午前3時になれば、1つの忘れられた小包が、死の宣告と同じほどの悲劇的な重さになる。そしてあの治療法は意味がなくなる。 - そして魂の真の悪夜では、いつだって午前3時なのだ。来る日も来る日も。


その時は幼児的な夢の中に逃げ込んで、できるだけ長い間物事に直視しないようにする傾向がある。 - しかし世界と様々な接触をして、ことあるごとにハッと目を覚ます。人はそうなると、なるべく早く知らんぷりをして夢の中にもう一度逃げ込もうとする。そうしてそれらが何か素敵な物体や心霊的な幸運で勝手に解決することを願いながら。

しかし逃げ続ける限り、幸運のチャンスはますます減っていく。 - 人はある悲しみが消えるのを待っているのではなく、もはや自我の崩壊という死刑執行をしぶしぶ目の当たりにしている…

 

 狂気やクスリ、酒に逃げ込まない限り、最終的には袋小路に行き着いてしまう。そこで待っているのは空虚な静寂だけだ。その中でできることは何が刈り取られてしまい、何が残されたのかを考えることくらいだ。この静寂が訪れた時に私はこれまでに二つの似たような経験をしていたことに気が付いた。


最初は20年前だった。私はマラリアと診断されプリンストン大学を3年生でやめることととなった。12年後X線をとってマラリアではなく結核だったことが分かった。 - 重い症状ではなかったため数ヶ月の養生のあと復学した。


しかしミュージカル コメディー劇団である「トライアングル クラブ」の会長の座を失ってしまった。そして留年もした。私にとって、大学は前と同じものではなくなっていた。名誉賞やメダルなんかは貰える見込みはない。


3月の午後、私が欲しかったものがひとつひとつ失われていくように思えた。 - そしてその夜、私は初めて女性の幻影を追い求めた。少しの間、それ以外のことは全部どうでもよく思えた。


数年後、大学で大物になり損ねたことは、実際は良かったのだと気が付いた。 - 委員会で働く代わりに英語の詩に打ち込んだ。それがどういうものか分かってくると、今度は書き方に取り掛かった。バーナード・ショウの原理にのっとるなら「もしあなたが好きなものを手にしていないなら、手にしているものを好きになったほうがいい。」それは怪我の功名だった。 - そのとき、皆のリーダーというキャリアは終わってしまったと知るのは厳しく苦々しいものだった。

 

その日から私は使えない使用人を解雇することができなくなった。それができる人を見ると驚いたし感動もした。独裁的ないくつかの昔の欲求は壊れて消えてしまった。私の人生は重苦しい夢のようで、よその街に住んでいる少女にあてた手紙のためだけにあった。打撃から立ち直ることはない。 - そして人が変わってしまい、新しいものに心を動かすようになる。

 

 現在の私の状況に似ているもう1つのエピソードというのは、戦後私が再び左右の翼を無理に広げたときのことだ。それは貧困のための悲恋の運命の1つだった。ある日、少女は常識に従ってそれを終わらせた。絶望の長い夏の間、私は手紙の代わりに小説を書いた。それはいい結果をもたらした。しかしそれは、ある異なった意味でいい結果をもたらしたのだ。1年後、彼女はある男、それにそいつのポケットの中にあるお金の音と結婚した。その男は有閑階級への永遠の不振と敵意を抱いていた。 - それは革命家の信念ではなく、農民のくすぶった憎しみだった。

 

それから数年、私は友人の金はいったいどこから来るのかずっと不思議思っていた。あるいは、ある種の「領主権」が行使されて彼らのうちの誰かに私の恋人が与えられたかもしれないと考えずにはいられなかった。

 

16年間、後者のような富裕層に不信を抱く酷い生活を送っていた。彼らが持っている身軽さや華やかさ得るために金を求めて働き続けた。その間に私はたくさんの駄馬を乗りつぶした。 - 今でもいくつか名前を憶えている。 - 「つぶされたプライド」「打ち砕かれた期待」「不信仰」「見せびらかし」「強打」「二度とない」

 

しばらくして私は25歳ではなく、35歳でさえなくなった。いいことなんて1つもなかった。しかしその間は落胆した記憶はない。私は誠実な人たちが、自殺を考えるような苦痛の空間を乗り超える様子を見てきた。その中にはあきらめて自殺してしまった人もいるが、自分自身を上手に切り替えて私以上の大きな成功を収めた人もいる。

 

しかし私の道徳心は醜い見せびらかしをしたときにあるような自己嫌悪の段階まで落ち込むことはなかった。

 

必ずしも抱えていた問題は落胆に結びつくわけではない。 - 落胆にはそれ自身の病原菌がある。関節のこわばりと関節炎が違うように、トラブルと落胆も同じものではない。

 

新たな空が太陽の光を遮った去年の春、私は最初15年か20年前に起こったことと関連付けることはしなかった。ただ少しづつそれは見知ったものだとわかり始めた-広げすぎた両翼、両端が燃えている蝋燭。つまりは銀行で預金以上にお金を引き出してしまった男のような自分では指揮のできない肉体資源の集まり。

 

最初、この一撃による衝撃は他の二つに比べ一層暴力的だった。しかしそれは同じものだ。空っぽのライフルを手に持ち、標的のなくなった射撃場で一人に黄昏に立っているような。問題なんて一つもなかった。ただ自分の呼吸しか聞こえない静寂だけがあった。

 

この静寂の中では全ての義務に対する責任などはなく、私の持つ価値観全てが収縮してしまった。秩序に対する情熱的な信念、予言やあてずっぽうに任せた結果や動機の無視、生産や産業はいかなる世界でも価値があるという感情 - これらやその他の信念が一つずつ排斥された。

 

小説(それは私の成熟後では人から人への意思と感情の伝達のための最も強くしなやかで媒質)が機械的で商業的なものへと隷属していくのを見た。ハイウッドの商人の手の中にあろうがロシアの理想主義者の手の中にあろうが、古典的な思考や見え透いた感情を反映するだけだった。そのような芸術においては言葉は映像の下に置かれ、個性は避けがたい社会のローギアによって摩滅していった。

 

1930年まで、映画というものがベストセラー作家でさえも何も言わない写真のように古いくさいものにしてしまうという直感があった。

 

人々は(それがキャンビー教授の「今月の本」だけにせよ、ドラッグストアの本棚でティファニーセイヤー氏のいかがわしい本をのぞき見している好奇心旺盛な子供たちにせよ)いまだ本を読んでいるが、言葉を綴るパワーがよりきらびやかなで下劣な他のパワーの下に置かれていくのを見るとほとんど強迫観念的に苛立ってしまう…

 

続きます。

「壊れる」 F・スコット・フィッツジェラルド 著

「壊れる」

F・スコット・フィッツジェラルド 著

どーなぬ 訳

 

もちろん。人生はある崩壊の過程である。しかし、その中でドラマチックな強打なのだとしたら―自分の外部から来るものや、そう思えるような突然の大打撃なら―それを思い出しては責任を押し付けたり、弱ってしまったときに友達に話せるようなものならば、一気に崩れることはない。

 

しかし、もう一つの、自分の内側から来る打撃もある。― 取り返しがつかなくなるまで気が付かない、そして二度とまともに戻ることができないと気が付いてやっとわかるような打撃。そしてそれは突然、いきなり起こったように思える最初の崩壊。―
二度目の崩壊は知らぬ間に起こっている。しかしそれは突然にあらわれる。

 

私のささいな昔ばなしをはじめる前に、一般的なことを話しておこう。

- 一流の賢さとは二つの背反な理論を同時に持ち、うまく機能させることである。例えば、望みがないとわかっていながら、どうにかやっていかなくてはならない。

この理論は私の青年時代に合っていた。そのときは「ありえない」ことがよく起こっていた。

 

人生は普通の人ならば思い通りになる。人生は賢さと努力、そしてそれをうまい割合で合わせたものがあればいい。

 

作家として成功することはロマンチックな仕事だと思う。-それはムービースターのように有名にはなれないが、きっと長く名前が残る。強い政治的信念を持つ人や宗教的な信念をを持つ人の力には決して及ばないが、自分を縛るものは少ないだろう。もちろん作家の仕事をやっているうちは私は永遠に満たされないのだろう。-しかし、私にとってきっとそれ以外に選択肢はないのだ。

 

1920年が過ぎた。私の20代はそれよりも少し早く終わってしまった。
二つの幼い悩み ― 体が大きくなかったので(もしくは上手くなかったので)大学のフットボール選手になれなかったこと。それと戦争の間に海外に行かなかったこと。- それらはなくなってしまって、悪夜に眠るための幼稚なヒロイズムの幻想になった。

 

人生の大きな問題は勝手に消えると思えた。それに実際に解決はしなくても、疲れるのでもっと大きな問題を考えなくていい。

 

10年前、人生の問題はだいたい個人的なものだった。無駄な努力と必要な努力とのバランスを取ればよかった。すなわち必ず失敗するという確信と、それでも成功しようとすること。- そしてこれら以上に、暗い過去と将来への高い希望といった矛盾のバランスをとること。

 

もし私がこのよくある悪癖 - つまりは家庭、職、個人 - を克服できれば自我は無から無へと飛ぶ矢のように飛び続けるのだろう。少なくとも重力しかない世界が矢を落とすまでは。

 

17年間、あえて休んだ中間の1年間を含め、物事はそういう風になって、新しい雑用だけが明日への希望となった。

 

一生懸命に生きた。一生懸命に。私は「49歳までは大丈夫」といった。「そこまでは大丈夫。私のように生きてきた人はそれだけでいい。」

 

― そして49まであと10年となったとき、私はもうすでに壊れていることに気が付いた。

 

人には多くの壊れ方がある。 - 頭が壊れたりもする。誰かに決定する力を奪われるとそうなる。体が壊れたりもする。そうなってしまえば真っ白な病院の世界に屈服するしかない。精神が壊れることもある。ウィリアム・シーブルックは彼のつまらない本で調子に乗った映画のようなエンディングを含めて、どうやって彼が公務員になったか書いてある。それは彼をアルコール中毒にした。もしくは自由を奪った。それは彼の精神が崩壊した結果だった。しかし今の私はアルコール中毒ではない。6か月の間、一杯のビールすら飲んでいない。彼は精神の反射をおかしくしてしまい、酷く怒ったり泣いたりした。

 

そんなことより、人生はいろんな攻撃を受けるという話に戻すと、壊れるのに気が付くのは打撃と同時ではなく、猶予がある。

 

最近、私は病院に行って重大な宣告を受けた。思い返せば平静に思える。当時住んでいた町では、やってないことがどれくらい残ってるとか、責任がどうなるとか、そういう風なことを全然考えてなかった。物語の登場人物のようだった。私はちゃんとした保険に入っているし、とにかく私は私の手の中に残ったものをないがしろにしていた。才能さえも。

 

しかし、私には孤独でなければならないという突然の強い本能があった。もう人を見たくなっかた。これまでたくさんの人を見てきた - 私は人脈は人並みだが、それ以上に、自分自身や思想や運命をこれまで出会ってきた人と重ね合わせてしまうクセがあった。それがどんな人であれ。

 

いつも誰かを助けてきた。そして助けられてきた。 - たった1日でワーテルローの戦いでのウェリントンの感情の起伏を経験した。計り知れない憎悪、離れがたい友人、私を支えてくれる人の世界で生きていた。

 

しかし、今、私は孤独になりたい。そして生活から隔絶されたい。

 

不幸ではなかった。町を出れば人は少ない。私はまともで、疲れているだけなのだと理解した。寝転がることができた。それは楽しくて、1日に20時間も寝ることもたまにあった。

 

その間には決して何も考えないようにした。 - 代わりにリストを作った - リストを作ってはそれを破いた。何百というリストを破いた。それは騎兵隊のリーダーだったり、フットボール選手の名前だったり、街や流行の曲や野球のピッチャーや幸せな時間や趣味、住んでいた家、軍を抜けてからのスーツや靴の数(ソレントで買ったスーツは縮んでしまったので数えていない。それに、何年も持っていたもう使わない靴やシャツやカラーも数えなかった。靴は湿って悪くなっていたし、シャツやカラーは黄ばんで糊は腐っていたから。) そして私が愛した人、自分より能力や人格で劣る人たちからバカにされたときのリストだった。

 

― 驚くべきことに、突然、私は治った。

 

― それを知ると同時に、古い皿のように壊れてしまった。

 

これがこの話の本当の結末。私がするべきだったことは、その時が来るのを待つことだった。


1時間くらい1人で枕にしがみついた後、私のこの2年間は私のものではないもので成りたっていたことに気が付きはじめた。自分自身の体も心も質にいれていた。それに比べて手に入れた人生はどれほど小さいものだっただろうか。 - 自立していることに自信もあったし、自分の生き方にプライドもあったのに。

 

この2年間、何かを守るために - それは心の静けさだったかもしれないし、そうじゃないかもしれない - 私はこれまで愛してきた全てのものから距離を置くことにした。 - 朝、歯を磨いてから夜に友達とご飯を食べるまでの人生の活動全てが億劫になってしまった。長い間人や物事を好きになれなくて、ガタついた昔の偽りの好みに従っているだけだった。

 

いちばん愛した人でさえ愛そうとしているだけだった。表面上の関係 - 編集者やたばこ屋、友達の子供なんかは「そうするべきだった」と思うだけだった。

 

そのころ、ラジオの音や雑誌の広告、トラックのきしみや田舎の死んだような静けさすら苦しくなっていた。人の優しさを軽蔑したり、冷たさにはすぐに(内心)反抗していた。眠れない夜を憎み、日中も憎んだ。昼は夜になってしまうから。

 

心臓を下にして眠った。どんなに少しでも心臓を早く疲れさせられれば、忌々しい悪夢の時間が早く来て、カタルシスのように明日をマシに迎えられる。

 

直視できる場所や顔はあった。中西部のほとんどの人のように、漠然とした人種の偏見はあんまりなかった。 - セントポールの街のテラスに座っている愛らしいスカンジナビア系の金髪の人にこっそり憧れを抱いていた。しかし社交界に混ざれるほど十分な経済力はなかった。彼女は田舎娘というには上品だったが、田舎を出て日の当たる場所に出るには早すぎた。とは言うものの、その輝かしい髪を一目見るために何区画も歩き回ったのを覚えている。 - 名も知らぬ少女の輝き。これは都会的で面白くもない話だ。

 

話がそれてしまったが、それからの私はあらゆるものに耐えられなくなった。ケルト人もイギリス人も政治家も見知らぬ人もバージニア人も黒人(真っ黒でも褐色でも)も狩人も店員もビジネスマン全般、そして作家も(普通の人はできないが、彼らは問題を永遠にすることができるので注意深くさけていた。) - すべての階級という階級、その中の人々のほとんども…

 

何かにしがみつこうとした。私は医者や13歳くらいまでの女の子、8歳以上の育ちのいい男の子なんかを好きになった。そんな数少ない人々からは平和と幸せをもらえた。

 

老人を加えることを忘れていた。 - 70歳は超えていて、老けていれば60以上の人もいた。それと映画のキャサリン・ヘップバーン。うぬぼれていると言われても別にいい。あとミリアム・ホプキンスの顔。そして年に1回会うか会わないかで顔もぼんやりとしか思い出せないような古い友人。

 

ずいぶん非人間的で不健康な話になってしまったかな?まあ、子供を好きであるということが壊れてしまった確たる証拠なのだ。

 

これはいい話じゃない。当然、あちこちで様々な非難を受けた。そのうちの一人には、それは女性だったのだが、彼女の人生に比べれば他の人の人生なんて死んだようにしか見えない。そんな人もいた。 - 普段はしないようなおせっかいをさせられた時でさえそうだった。

 

この話は終わりだが、その時の会話を後書きとして加えたい。

 

「自分ことをそんなに後悔しないで。聞いて?。」 - 彼女は言った。(彼女はいつも「聞いて?」と言う。それは彼女が話しながらその内容を考えているからだ。 - 本当に考えている。) そしてこう言った。「聞いて?あなたが壊れたのではないと思いましょう。壊れたのはグランドキャニオンだと思いましょう。」

 

「壊れたのは私だ。」私は声をあげた。

 

「聞いて!世界はあなたの見える範囲にしかないの。 - それは概念なの。あなたがそうしようと思えば大きくも小さくもできるわ。あなたは自分をつまらないものにしている。もし私が壊れたのなら世界も道連れにしてやるわ。神様に誓って。聞いて!世界はあなたの胸騒ぎの中にあるの。だから自分が壊れてしまったと言わないほうがいいわ。壊れたのはグランドキャニオンなの。」

 

「君はスピノザなのかい?」

 

「私はスピノザなんて何も知らないわ。私が知っていることは - 」彼女は昔の苦悩について話し始めた。それは私の苦しみよりずっと痛ましいように思えた。どのように苦しみに出会ったか、どうやって乗り越えたか、どんなに打ちのめされたか話していた。

 

私は彼女の話にある種の反感を覚えた。私は頭の回転が遅いうえに、そのときは他のことで頭がいっぱいだった。生まれ持った能力の中で生命力というものは誰かに分け与えられるものではない。そんなことを考えていた。

 

生命力というジュースに関税がかからなかったときは、それを分配しようとする。 - でもそれはいつもうまくいかない。別の比喩を使うなら、生命力というのは「もってこれない」。生命力は持っているか持っていないかだ。健康とか茶色の瞳とか名誉やバリトンボイスみたいなものだ。家に持ち帰って食べるためにきれいに包むよう頼んでも持って帰ることはできない。乞食のようにブリキのカップを並べて何時間待っても無駄だろう。

 

彼女の家から出て歩いた。自分自身をまるで陶磁器のように丁寧に抱えながら。苦しみの世界に去ろう。そこで見つけたもので自分の居場所をつくる。 - 彼女の家を出た後、私は自分自身に引用する。

 

「あなたたちは地の塩である。もし塩が塩気を失ってしまえば、それを塩にするものはいったいどこにあるでしょうか?」
マタイ5章13節